昭和54年9月19日 朝の御理解
御理解第42節
「これ程信心するのにどうしてかういう事が出来るのであらうかと思へば信心はもう止まって居るこれは未だ信心が足らぬのぢゃと思ひ一心に信心して行けばそこからおかげが受けられる」 そこからのおかげと言うおかげが本当な物ですよね。そこから受けられるおかげ。その事、そこから力を頂く信心。お徳を受ける信心と言うのは、それからの信心だと思いますね。
だからそれまでのは誰でも出来ると言う感じ。けれどもいろいろお願いをさせて頂いて一心にお参りをしとるつもりだけれども、おかげにならない。そう言う時にこれはまだ信心が足りんのだと思うてね。そこからもう一段工夫をこらして一段と信心をさせて頂く。そこからおかげが受けられる人とね、そこから信心が後戻りする人。 これほど信心しておかげを頂ききらんからと、例えばそこから折れたり曲がったりね、おしまいになってしまう人すらがあるのでございます。だからお徳を受ける本当の力を受けると言う人は、そこからの信心が違うわけですよね。だから、ならそこからの信心と言うのはどう言う信心だろう。まあ、例えて申しますと、朝の御祈念にお参りをする。毎日日参をする。 昨日、私はお月次祭の時にお話しをしながら誰だったか昨日、合楽の御結界が最高権威、最高のま御結界。どう言う難儀な問題でも持って行けて、しかもおかげになる。御結界と言う事を頂いて高橋定利と言う事を頂いた方があったが、あれは誰だったかと思うてお話に思い出して。後から思たらほんにあの井上さんだった。
井上さんが昨日。私がお話をさせて頂く中に本気になると言う事、本気でお取次を頂くと言う事。大きな見事なお便所がある。しかもそこは畳敷である。そこには高橋さんが立って居られたと言うのですから、それはあの私は高橋と言う事は、このお取次を言う事は、神様の世界と氏子の世界を取り結ぶ一つの橋のようなもんだと。
しかも高度な、もう言うならば人間の力ではどうにも出来ないと言ったようなあの事柄でもここでお取次さして頂いて、おかげを頂いておるという事実は、そう言う働きのある御結界。しかもそのきれいな喪服のような黒の何とかおっしゃられましたが立派な着物を着て、お便所を使おうと思うけども、そのお便所が動いている。
こうやって、でこうして尻からげよるとこっちの袂がつかろうごたる。こうしよると裾の方がぬけようごとあるとこう言うような所で井上さんが思われた事は、こんなもんな着て来ずに本当はまって、このお便所は使わな使われんと思うておるところであった。そして横には高橋さんが立っておられたと。
これは私は、合楽の御結界はも生き生きとした動きがあっておると言う事だと思いましたね。ね、言うなら、言うならば活火山ぢゃないけれども活動しておるお広前だと。活動しておる御結界だと、しかも最高の言うならば権威を持った御結界としてのを神様は認めておって下さるからこそ、ならどういう難儀な問題であろうが、どういうおかげであろうが、どういう事であろうが。本気で皆さんが願われるなら、それがおかげになると言うお知らせであった。
そんな話を昨日はさせてもらったんです。ね、だから私が今日の御理解で思わせて頂くんですけども、これはまあだ信心が足りんんのだと言うのは、もう人間的にこれより修行は出けん。例えば高橋さん達の場合なんかは、もこれより以上の修行は出来まいと私は思いますよね。何十年間、福岡から毎日日参ですから、しかも教会に御用があると言う時には二遍も三遍も見えるような事があるんですから。しかも自分のつういっぱいの御用もさして頂いてからの事ですから、またつういっぱいのお供えもさして頂いてからの事ですから。まあ、この人より右に出るものは居るまいと、私が言う位の一生懸命の信心しよるとぢゃけん、もこれ以上の信心ち言うたらね、そげんにゃ出けんと言うても良いようなもんですけれども。ならそれでもおかげを受けられんなら高橋さん自身がこれ程信心するのにと言わずに、これはまあだ信心が足りぬからだと気付かなければいけないと言う事なんです。
ね、だからどこに、そのまあだ足りない所があるだろうかと皆さんの場合は、はあ、これはまあだ言うならばお参りに一生懸命なものがないとかね。または御用と言うような事はもう、あれはお世話人の方達がするとであって、自分どんそげな事はせんでよかとかね。 今日はZ『秋永友良』と言う事を頂いたんですけども。ここ四、五日ずっと良いと言う字のつく御理解を頂くですね。友良のよしは「良」なんです。秋永と言うのは淋しい事が続くと言う事でしょうね。言うならいつまでたってもおかげ頂ききらんと言う意味でしょうね。本当なおかげにならないと言う意味でしょう。 けどここの信徒会長として、だから秋永先生がおかげを受けられんと言う事ぢゃないですよ。例えばま信心しておるけども、おかげが受けられん時、本当に自分な長いばっかりでおかげがどうもはっきりせん。すっきりせんと言ったような時にです。ねなら今日の御理解を頂いて、これはまあだ信心が足りぬからだとね。本当にお徳を受ける。本当に力を受ける事の為にはこう言う信心をもって良とすると言う事になるでしょ。
ならこう言う信心とは、これはまあだ信心が足りんのだとそこから一段と信心を進めていくと。ならその一段の信心を進めて行くと言う事は、ならどう言う事かと言うと先生達の場合なんかはそれこそ信徒会長として様々なここの教会外のその本部とかまたは教務所とか、信徒会とか連合会とかと言ったような御用にでも、それこそ御用に打ち込んでおるわけでしょ。ねならそう言う御用に打ち込んでおるけれども、ならまだ足りないとこう言うならば、どこが足りんのだろうかと。 なら今日の御理解。これはまあだ信心が足りんのだと言う事は、どこかと言うと、なら言う今、井上さんが昨日お知らせを頂かれたと言うね。本気が足りんのだと言うならば本気でお取次を願うと言う事が足りんのだと言う事になるのぢゃないでしょうか。ここの御結界は動いてる、活動しておる。
だからね、ただ毎日参ってお願いしますと言うだけで、お取次を頂いたと言うのぢゃなくて、お取次を頂くと言う事もです。なら自分の我情我欲の事ではない、言うならば御用の事でも言うならば神様に喜んで頂けれるようなお役に立ちたいと言う願いを立てたならば、いや立てなければならん。そして本気でお取次を願うと言う事が足りんのだと気付かせてもらったらいいと思うです。
ね、だから本当に徳を受け、本当に力を受けると言う事の為にはです。ね、本気でお取次を頂く事を良とする。そのお取次を頂くその内容も自分一身一家の事ではない。神様に喜んで頂くような事にも一心、本気でお願いすると言う事になるです。
昨日、これもお話しましたように高松和子先生が昨日ですか、昨日の晩です。共励殿で寝ませて頂いた。だから兎に角眠る時間と言うのが修行生の方達はないですからね。もう本気で願わなければ目覚ましのおかげは頂かれん。もそれもしるしい目覚ましぢゃいかん。もう清々しい目覚ましのおかげを頂く事にの為に眠む時に、本気で願わないけんなあと思うて、本気で願わないけんなあと思たら、その共励殿に白木の大黒様があるでしょ。床の間の所へ、あれが二つに割れたかと思う程しの大きなおいさみが、あの大黒様につかれたと言う事です。
これはどう言う事かと言うと、本気で願わなければいけないと言う事です。お参りはしよるけども本気が足らん。どうか言われたら、もう迷う。どうか言うたら、もう挫折すると言ったような信心でおかげが受けられんと言うなら、それは当たり前の事だとまず思うて一段と信心を進めて行かにゃならんです。一段と進める信心を今日は本気でね。また井上さんが頂いておられるように、はまってね。ここの便所に行くには、もうダラダラしたものではなくて、お取次を頂いたらでけんと言う事なんです。
と言う事は、これははまってお取次を願わないけん。井上さんなんかの場合は御造営の事については、もう一家中で一生懸命やっとられる。ね、言うならそこに奉賛箱を作ってね。それこそ信心の薄いお父さんまでそれに奉賛しておられる。ね、それでもその願いを立ててはおるけども、それをまあだ、ならはまってその事にまあだはまり方が足りんと言う事ぢゃないでしょうか。
まそうお便所使いながら思うたち、はあこげなダラァトとした着物どん着てからぢゃでけんと。これはこの便所を使う為には、はまらなでけん。こげなもんな脱ぎ捨てて、そしてはまってお取次を頂かなならんと言う事を、まお夢の中で頂かれたと言う事。
今日はね。御神徳を頂く、力を頂くと言うけれどもね。それにはね。はあまず、自分の信心にはそのはまりが足りなかった。または本気が足りなかった。毎晩明日もよい目覚ましのおかげが頂きますようにと言うて願いよるばってん、まあだ本気ぢゃなかった。
これは本気で願わないけんと言う時に、その大黒様が割れたかと思うようなおいさみを頂いたと言う和子先生のお話しとね。その井上さんのお取次をいわゆるその畳敷の立派なお手洗いを使わせて頂くにはそのお手洗いが動いておる。それは合楽の御詰界が言わば最高権威をもったお結界であると、同時に動いておるんだとね。
言うならば生きた電気のようなものなんだと。ね、だから生きた電気をまともに使えば、そこにはどう言う言うならば発動する働きと言うものが生まれてくるけれども、うかつな事したりしよると、それこそ命落とすような事にもなるわけ。ねそうでしょうが。電気でそのやられると言うのはそれです。危ないような感じに動いておると、だから信心させて頂く者はどこまでも、いつもです。言うならば白羽の矢を白羽を…こう合せたようなしら真剣な、真剣勝負のようなものがです。いよいよ信心。これはどうでもと言う時には、その真剣がいる。それを最近日田の井手さんが頂いておられるように、それを一志一心で貫くと言うのです。
「一志」と言うのは一つの志を立てたら、それを一心に貫いておる。貫いておるけれどもおかげが受けられん。これはまあだ信心が足らんのだ。これ程信心するのに、もこれ以上な事は出けんと言う弱音ではなくて。これは自分の信心か足りんのだと、形の上では今、高橋さんの例を取ったように。これ以上の事は出来ない程しのものだけども、自分の例えば神様へ願う本気が足りない。まあだはまり方がはまっていない。本当にはまっていないと気付かせて頂く信心をお徳を頂く信心には良とするというふうに今日は頂いて頂きたい。 ね、もう本気でね。昨日、お月次祭にも申しましたように本気で、はあ、自分の本気が足らなかったと思うて、改めてお取次の事をお願いさして頂いた。自分にはちょっと初めから無理と思とったけれども、それが出来そうにもあり、出来そうにもないと言う御造営の事をお願いされた或る婦人がね。本気でその事を願われる事になった。もう手の平を返すようにね、子供が丁度十三日の日に満期になった五十万と言うお金を、お母さんこれは北海道旅行しようと思いよったばってんもう止めた。それでお母さんにあげる。だからお母さんがいつも言うてる合楽の御造営費に使うてもいいよと言うて、もう夢にも思わない事が起こってきた。
ね、言うなら二十万出来た、十万出来た。もうあとわずかで、自分の願いが成就する。もうこげな夢のような話があるだろうか。問題は本気でお取次を頂いてからの事であると言う事なんです。
心には思うとるばってん、出来てん、出来んな、出来た時にお供えしようと言ったような事では言うならば、お徳や力にならん。ね、そう言う一志一心が貫かれた時に、そん貫く所にです。今日の信心がもし貫く事が出けんなら、一志一心のつもりだけれども。これはまあだ本気が足りないのだ。はまりが足りないのだ。本気ではまってお取次を頂いて生きた働きを受けようと言う信心にならせて頂いた時に、それはそのまま徳になる、力になると言う事でございますね。「どうぞ」